「字幕なし&英語で理解」鑑賞のすすめ”セッション”編
- 2016年1月1日
- 読了時間: 2分
更新日:2020年5月4日

5回にわたってご紹介した映画「セッション」感謝祭ディナーのシークエンスをあらためて字幕なしで見返してみて色々なことがわかりました。今回はそのことについてご紹介したいと思います。
「字幕なし&英語で理解」によって言葉に表れない細かい感情の動きを演技から読み取ることができます(当然ですね)。字幕を読んでいる間に多くのことを見過ごしていたことがよくわかりました。このシークエンスは素早いカット割りの中に多くの情報量(劇中人物の性格描写、微妙な感情の動き)が表現されています。
例えば、叔母のエマが時折みせるアンディへの気配り。フランクが「友達はいるか?」とアンディに皮肉を言う時の「もう、よして」というしぐさや「チャーリー・パーカーは孤独だった」とアンディが話す時の「それもひとつの考え方よ」という肯定的なジェスチャーは字幕鑑賞では気付きにくいかもしれません。
アンディの表情も雄弁に彼の気持ちを語ります。
フランクがジムの手料理に「固すぎて噛みきれない」とコメントする時に見せる「失礼だぞ」という表情、トラビスのタッチダウンが学内記録だという話題に及んだ時にみせる「それがどうした?」という表情などです。
それともうひとつ気付かされる点はアンディに孤独感を投影する演出の妙です。ディナーの席でアンディが疎外感を深めていく様子が実にくっきりと描かれています。
映画は叔父フランクと二人の息子たちを特に悪意ある人物として描いているわけではありません(叔父のフランクは人相が悪いですけどね)。アンディのやっていることを彼らが全く理解できないのは、音楽に対する興味と知識がないからに過ぎず、ごく普通の人々がJazzという音楽に対して感じる事柄を代弁させているように感じられます。
それを芸術に対する否定とアンディに受けとらせることによって、場の緊張を生み出しています。
アンディは怒りにまかせて非礼な発言をします。親戚の前での不作法をジムは父親として戒めます。アンディはそこで唯一の理解者だと信じていた父親の本心の一端を知ることになり、その結果、自身の孤独をより深く感じることになるという演出です。
この3分間のシークエンスはひとりの若者の孤独をテーマとした短編として成立するほどの完成度だと思います。ぜひ、字幕なしでもう一度ご覧になってみてはいかがでしょうか?

コメント